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東京家庭裁判所 昭和48年(家)8334号 審判

申立人 中村光子(仮名)

相手方 中村雄三(仮名)

主文

申立人と相手方とが同居または離婚に至るまでの間、長男和博(昭和三五年一二月一九日生)を監護すべき者を父である相手方、二男正博(昭和四二年七月一四日生)を監護すべき者を母である申立人と定める。

申立人は相手方の監護のもとにある長男につき、相手方は申立人の監護のもとにある二男につき、それぞれ監護者の意思に反して居所を変更させる行為をしてはならない。

申立人は学校教育法二二条に基づき二男正博を昭和四九年度新入学児童として所定の小学校に就学させ、相手方はこれに協力しなければならない。

理由

本件申立の要旨は「申立人と相手方は昭和三五年八月二九日婚姻した夫婦であり、その間に長男和博(昭和三五年一二月一九日生)と二男正博(昭和四二年七月一四日生)があるところ、昭和四二年八月ころから相手方に女性関係が生じ、その後相手方は右長男二男を申立人から取り上げて他に転居してしまい、申立人との間にその鑑護引取りをめぐる紛争が激化しているので、子の監護をすべき者その他監護について必要な事項を定めることの審判を求める。」というのである。

〔本件の事実関係〕

以下に摘示する事実は、特に証拠関係を掲記したところのほかは、後掲各調停および審判事件記録、家庭裁判所調査官の調査報告書、本件における双方当事者本人審問の結果に照らして認定したところである。

一  相手方は本籍長野県○○郡○○町大字○○△番地中村俊雄、同人妻よし子の三男として右本籍で出生し、昭和一六年三月地元の○○村小学校高等科を卒業、同年四月から○○の海軍航空技術厰に軍属として勤務し、その後病を得て帰郷、昭和二一年四月から東京都○○区○○に住む叔父(父の弟)中村源蔵方に大工見習として住み込み、昭和二七年に独立して申立人の肩書住所地に家屋を買い求め、「中村建設」という名称で建設業を始め、現在に至つている。

二  申立人は本籍東京都○○区○○町△丁目△△番地岡本茂、同人妻あいの長女として出生し、地元の○○小学校を卒業、○○女子学園中等部から高等部へ進み、昭和三三年同校を卒業した。申立人の父は青果業を営んでおり、その居宅から一軒置いた隣りに住んでいる相手方は申立人方に電話を借りにきたり大工仕事に来たりして申立人や申立人の父母とも親しくなり、申立人の在学中に相手方と申立人との婚約が成立した。

三  申立人と相手方とは昭和三四年一一月五日仲人鈴木修の媒酌で○○共済会館において結婚式を挙げ、前記相手方の住所で同居生活に入つた。そして申立の要旨のとおり昭和三五年八月二五日婚姻届出をし、同年一二月一九日長男和博が生まれ、昭和四二年七月一四日二男正博が生まれた。この間「中村建設」の業績は順調であり、昭和四〇年ころ相手方は前記住所の隣の家を買い取つて「中村建設」の事務所とし従業員の数も増えた。相手方の弟中村輝雄と妹の夫中村憲治も相手方のもとで働いている。昭和四三年には○○市○○に○○油設株式会社を設立した。

四  申立人が二男の出産で休んでいる間に相手方は辻久江(当時一八歳)を事務員として雇い入れたが、相手方と同女との間柄をめぐつて夫婦の仲は円満を欠くに至つた。そして昭和四三年四月ころ申立人は長男と二男を連れて相手方と別居することを申し出で、○○区○○にマンションを物色したが、相手方は申立人に子を渡すことに反対して実現に至らず、夫婦は同居を続けながら寝室も食事も別にし、夜は相手方が長男二男を寝室に連れて行き、内側から鍵をかけるという状態になつた。

五  長男は昭和四二年四月○○小学校に入学していたが、前記のとおり申立人が相手方と別居するとの話合いがなされたとき、△△区立△△小学校に転校させてあつたところ、昭和四三年暮から昭和四四年正月にかけ相手方は長男を長野県○○の長兄中村一雄方に連れて行つて預け、その後は○○市の妹啓子のところに預けて前記小学校に通わせた。

六  申立人は昭和四四年八月、長男を啓子のところから連れ出し、二男をも連れて九州に赴き、別府市の旅館に一週間ばかり滞在したが、実家に電話したことから相手方が申立人の所在を知り、別府市まで迎えに来た。このとき夫婦は三日間同宿しながら口をきかず、飛行機で羽田に着くや相手方は長男と二男のみを連れて帰宅してしまい、長男二男は親族方に預けて申立人にはその所在を明らかにしなかつた。

七  昭和四四年一〇月ころ申立人は二男が○○区○○の相手方の弟輝雄方に預けられていることを知り、連れ戻して申立人の実家に預けた。そして同年一一月末ころ長男を前記△△小学校への登校の途中を擁して連れ帰り、○○市○○のアパートに住まわせ、外に出さぬようにしたが、長男は三日後に相手方のもとに戻つた。一方、相手方は昭和四五年四月二男を申立人の実家から連れ去り、いずれかへ預けた。

八  昭和四五年四月から七月ころまで申立人は長男を△△小学校の登下校時に待ち受け、数回にわたり連れ去つたが、その都度数日間で長男は相手方のもとに戻り、相手方もこれに対抗して学校を見張るという状態が続いた。この間、同年六月一六日相手方は申立人を相手どり離婚を求める趣旨の調停を東京家庭裁判所に申し立てた(同庁昭和四五年(家イ)第三四七二号夫婦関係調整事件)。同年七月七日前記小学校長の斡旋で同小学校において申立人と相手方、媒酌人の鈴木修、申立人の弟岡本寛が会して話し合つた結果、長男はそのまま相手方のもとから同小学校に通学させ、二男は申立人に引き渡すとの合意が成立した。しかし相手方は二男を申立人に引き渡さず、その所在をも明らかにしなかつた。

九  昭和四五年八月ころ相手方は肩書住所のマンションを借りて連絡先とし、長男を××区立××小学校に転校させたが、申立人に対してはこのことを秘していた。そして前記夫婦関係調整の調停事件は同年八月六日を第一回として同年内に数回の調停期日が開かれたが相手方本人は一一月一二日の期日に出頭したのみで、他は代理人弁護士が出頭し、調停は進展しなかつた。昭和四六年一月申立人は長男の所在を探知し、同月二〇日登校途中の長男を自動車で連れ去り、○○区○○に住む申立人の叔母竹下清子方に預けた。しかし同年二月二八日相手方が訪ね当てて来て連れ戻してしまつた。右調停事件は同年一月二三日、二月二七日、三月一六日の期日を経て、同年四月三日の期日に不成立により終了した(最後の二回の期日には相手方本人が出頭している)。

一〇  相手方は昭和四六年四月ひそかに長男を三重県△△郡△△の知人田中某方に預け、同村の小学校に転入学させた。そして同年五月四日申立人を被告として東京地方裁判所に離婚等請求の訴(同庁昭和四六年(タ)第一六八号事件)を提起し、更にこれと別個に株券等引渡請求の訴(同庁昭和四六年(ワ)第一〇一八三号事件)を提起した。後者の事件は、同年二月二八日相手方が長男を連れ戻したことに対する腹いせとして、同日申立人が相手方の肩書住所に侵入し、約束手形や株券を持ち出したことを理由とするものであり、法廷において申立人がこれらを返還し、取下げにより終了した。

一一  これに対し申立人は辻久江らを被告として東京地方裁判所に慰藉料請求の訴(同庁昭和四七年(ワ)第三一六号事件)を提起する一方、昭和四七年二月一日東京家庭裁判所に相手方に対する婚姻費用分担を求める調停を申し立て(同庁昭和四七年(家イ)第五九七号婚姻費用分担事件)、ついで同年三月一一日同じく長男、二男に面会させることを求める趣旨の調停申立をした(同庁昭和四七年(家イ)第一五三〇号子の監護に関する処分事件)。右両調停事件は合わせて家庭裁判所調査官の事前調査に付されたが、調査の過程においても、相手方は長男二男の所在を明らかにせず、相手方自身の居所をも秘し、調査は難航した。しかし、調査官の説得により昭和四七年四月三日相手方は長男二男を連れて調査官のもとに出頭し、両名の心理検査等が行われた(この結果については後述)。申立人が調査官に訴えるところは、子供を苦労して連れ戻しても子供が自分になついてくれないのは相手方が子供に母親のことを悪人として教え込んでいるのだろう、せめて何も知らない二男だけでも渡してくれれば………、というのであり、相手方は申立人が子供を道連れに自殺するおそれもあり、申立人は子供の養育者として不向きである、黙つて子供を連れて行つたりするうちは絶対に子供に会わせることはできない、というのであつた。

一二  申立人はその間も長男の所在を探索した結果、昭和四七年一〇月長男が三重県にいることを聴き知り、前記竹下清子の長男竹下正則とともに三重県に赴き、同月一二日前記小学校の遠足のため校庭に集合していた長男を見付けて東京に連れ戻つた。そして相手方の追及を免れるため東京都内の親族や知人方に転々と預けて外出させないようにしていたが、同月二八日相手方の発見するところとなり、相手方は××区××のマンションから申立人の不在中に長男を連れ帰つた。そして同月三一日相手方は長男二男を連れて調査官のもとに出頭した(その調査結果等については後述)。

一三  その後、相手方は長男を一旦三重県へ連れて行つたのち東京の学校への転校手続をとり、○○市の相手方の妹中村啓子方に預けておいたところ、これを探知した申立人は一一月一一日父岡本茂ほかとともに啓子方に赴き、長男を連れ帰り、○○に住む申立人の兄岡本淳方に預けた。これより先、前記両調停事件については同年九月五日を第一回とし、一〇月一二日(申立人は欠席、この日申立人は前記のとおり三重県に長男を連れに行つている)、一一月一六日と調停期日が開かれ、この日、長男に関する前記の事態判明により、調停委員会は次回期日を一一月三〇日午後三時と指定し、申立人に長男を同行するよう勧告したが、申立人は右期日に長男を同行せず、更に臨時に指定された一二月二日午前一〇時の期日に申立人は欠席し(父と弟寛が出席した)ので、改めて一二月一五日午前一一時の期日が指定された(この期日は一二月二二日午前一一時三〇分に変更された)。その間、同年一二月一四日相手方は申立人を相手どり東京家庭裁判所に申立人につき長男和博、二男正博に対する親権喪失宣告を求める審判申立をした(同庁昭和四七年(家)第一三三〇一号、同第一三三〇二号事件)。そして、同年一二月二〇日申立人は長男を調査のため同裁判所に同行し、長男に対する調査官の面接調査が行われた(この調査結果については後述)。

一四  かくて同年一二月二二日の調停期日において、長男を復学させることが急務であるとする調停委員会の説得により、当時相手方が長男を××市の私立△△学園小学校に転入学手続をとつていたことを前提として、相手方が××市内にアパートを借りて申立人に提供し、申立人が長男とともにこれに住んで長男を右小学校に通学させることを骨子とする次のとおりの合意が当事者間に成立し、その旨中間合意調書が作成された。

1  事件本人中村和博(昭和三五年一二月一九日生)は、今後当分の間、申立人において監護養育する。

2  申立人は速かに事件本人を××市立××小学校に入学させること(上記学校の転校手続については、相手方においてすでに完了ずみである)。

3  相手方は前項実現のため、昭和四七年一二月末日までに申立人および事件本人の居住する家屋を確保し、これを申立人に提供すること。

4  相手方は申立人に対し、昭和四八年一月一日以降申立人および事件本人の生活費および教育費として、家賃を除き一か月金五万円あてを支払うこととし、これを毎月始めに申立人方に持参もしくは送金して支払うこと。

5  申立人は事件本人を自由に相手方に会わせ、また、毎週土曜日、日曜日および休日には相手方宅に事件本人を行かせること。ただし、相手方は日曜日または休日中に事件本人を申立人方に連れ戻すこと。

6  申立人は、上記住居において事件本人の教育の妨げとなるような外来者を出入りさせないこと。

7  相手方は、現在申立人が居住している東京都○○区○○△丁目△△番△号の住居を申立人の同意なく勝手に処分しないこと。

8  相手方が前項に違反した場合は、違約金として金四〇〇万円を支払うものとする。

9  申立人は、第7項掲記の家屋には申立人以外の者を居住させないこと。

10  申立人は、事件本人が昭和四七年一二月二八日および二九日ならびに昭和四八年一月四日から七日まで、相手方の方に行くことを認める。

一五  右中間合意においては、同年一二月二八日に長男を相手方のもとに行かせることになつていたが、右合意成立の直後から相手方が長男の所在を探す気配を感じた申立人は、そのまま長男を手もとにとどめ、昭和四八年正月に至り、申立人代理人の事務所で相手方と打ち合わせたうえ、同年一月七日長男を連れて××市内に相手方が用意したアパートに移り、翌八日から長男は××小学校に通学し始めた。しかし、日中は所在のない申立人が○○のほうへ帰つて色々の用達しをし夕方××市へ戻り、土曜日曜は長男を相手方のところに泊まらせるという生活は仲々円滑に行かず、長男の歯科通院先の選定をめぐつて申立人と相手方との対立が生じたりしたので、相手方は右××市のアパートの一室に泊まり、申立人は午後一〇時ころまでアパートにいてその後は○○に戻り、翌早朝にアパートに行くという形となり、前記中間合意の実行の困難性が双方当事者に自覚された。そして前記調停の一月二四日の期日に右事態が調停委員会に報告され、申立人は父茂のすすめもあつて長男を相手方に渡し、○○の住所に戻ることにした。

一六  そのころ二男正博が千葉県○○町に相手方が経営しているモーテル○○に預けられていることを申立人側において探知していたので、申立人は正博を取り戻すことに力をそそぐという気持になつていた。同年二月一九日申立人の父茂は心筋梗塞のため急死した。同年の春休みに二男正博が前記○○の相手方の長兄中村一雄方に行つていることを実家の従業員の報告で知つた申立人は、同年四月一日○○に赴き、○○のスキー場で遊んでいた正博を見付け、右従業員とともに自動車で連れ戻り、爾来、相手方の目に触れないところに居住させて現在に至つている。

一七  相手方は長男和博を○○区××町△△番××マンション二〇二号に居住させて監護しており、同人は昭和四八年四月日大三中に入学した。

一八  かくて前記両調停事件は昭和四八年七月一一日の期日に調停不成立となり、子の監護に関する処分事件は本件審判手続に移行した。しかし、その後、同年八月ころから○○の住所で相手方と申立人との接触があり、同年一〇月ころ相手方が申立人に電話して連絡を取り、○○駅で待ち合わせ、食事を共にし、同年一一月末ころにも同様のことがあり、このときは夫婦でホテルに一泊したこともあるとの事実が判明し、審判手続の進行とは別に調査官によつて両者の和合調整が行われ、昭和四八年暮から昭和四九年正月にかけて夫婦がそれぞれ長男二男を連れて宿泊旅行をすることなどを実現する提案がなされたが結局実現するに至らなかつた(この点は後述)。

(当裁判所の判断)

一  父母が協議上の離婚をするときは、子の監護をすべき者その他監護について必要な事項は、その協議でこれを定めなければならないが、協議が調わないとき、又は協議をすることができないときは、家庭裁判所がこれを定めることになる(民法七六六条)。しかしながら父母が離婚に至つていない場合でも、その共同親権に服する子の監護の方法について父母の協議が調わないときは、前記法条の準用により、同様に家庭裁判所がこれを定めるべきである。本件においては当事者間の離婚請求訴訟が係属中であり、前認定の事実関係のもとにおいて両者間に子の監護について必要な事項の協議が調わない状況にあることが明らかであるから、審判によつてこれを定めるほかはない。

二  前認定のとおり、現在、長男和博(一三歳)については相手方、二男正博(六歳)については申立人が、それぞれ監護して一応の安定を見ているが、昭和四三年四月以降、夫婦の深刻苛烈な抗争のもとで実力による子の奪取が反覆され、特に義務教育の途中にある長男には数次の転校と学業の中断があり、両児とも父母の対立の犠牲となつている。

三  昭和四七年四月三日当庁調査官によつて行われた未成年者らに対する心理検査の結果によると、長男和博(当時一一歳三か月)は年齢相応の知的発達あり、知的レベルで問題はないが、精神的な内的状況としては、非常に孤独感が強く、人を求めず、人に頼つたり甘えたりしないという、この年齢の子供としては珍しいタイプを示し、CCP検査では母との情緒的結び付きの弱さが現われていたし、二男正博(当時四歳八か月)は、同様に標準的な知的発育が認められるとともに、父親イメージ母親イメージともに有し、家族関係の中での家族的まとまり感は持つていることが認められた。当時長男和博は三重県の田中方に預けられていたのであるが、調査官に対してもその居所は語らなかつたし、調査官との面接中ぴつたりと父について坐り、父の顔ばかり見て答えるという状態であつた。二男正博は母のことは覚えていない様子であつた(そのころ約二年間母に会つていなかつたのであるから、このことは当然であろう)。また同年一〇月三一日当庁調査官が行なつた未成年者らの面接調査においては、長男和博は前回の面接とくらべ落着きがなく、父の顔ばかりみて、しやべろうとせず、調査官の質問に対しては、たいてい父が先に答えるという状態であつたが、ただ「早く学校に行きたい。中学校は東京がいい。」と述べ、二男正博は女の子のように長く髪をのばし、女児服を着せられており、幼稚園にも行つていない様子が看取された。

四  昭和四七年一二月二〇日に行なわれた当庁調査官の長男和博に対する面接調査においては、和博は三重県の田中方での生活や、申立人に東京に連れてこられた模様、相手方に連れ戻され、再び申立人が連れに来たことを述べ、その後の申立人のもとにおける生活状況としては、申立人がドリルを買つてくれたが教科書がないし、習つていた教料書と違うのでよくわからない、とにかく学校へ行きたい、本当は相手方(父)のところから学校へ通いたい、との趣旨を述べた。

五  長男和博は現在は父である相手方の監護のもとで中学校一年生として通学しているが、心理的に母である申立人との結び付きの弱いことは、小学校二年生のころ以来、母との同居の期間が短かかつたことのほか、父である相手方の申立人に対する感情の影響にもよると推認されるが、諸般の事情を考慮すると、同人を監護すべき者は父である相手方と定めるのが相当である。

六  二男正博は現在は母である申立人の監護のもとにある。昭和四八年四月一日相手方のもとから申立人が正博を奪取したことは尋常ならざるものであるが、何分にも同人は就学前の幼児であつて、一般的に母親を必要とする年齢であるし、同人は前認定のとおり心理的にも父親像母親像に格段の相違はないのであるから、母との同居の継続により十分にその適応性を回復するものと認められる。申立人が正博の居所を明らかにしないことも、これまでの再三にわたる相手方との子の奪合いの実態に照らすときは一概にこれを責めることはできない。申立人代理人弁護士内野経一郎の昭和四八年一二月四日の審判期日における陳述によると、申立人は同年一一月一七日二男正博を同弁護士の事務所に同行し、その健康な状態の確認を受け、同人の通園している幼稚園名、園長名、担任教諭名を告げたので、同弁護士は同月二〇日右幼稚園に電話して右の事実を確めたとのことである。

七  申立人については、昭和四七年二~三月の本件調停申立当時、調査官の事前調査に際し、精神状態不安定のため調査のための呼出を延期して貰いたい旨、代理人から申入れがなされた程であつたが、同年五月ころにはやや回復して調査に応じた。前記認定の紛争の経過のもとで、約二年間も子から引き離されていた申立人としては精神状態の安定を欠くに至つたのもまた当然であろう。その後、長男については三重県からの連戻しをめぐる出来事があるが、二男については昭和四八年四月一日まで、その所在すら知ることがなかつたのである。そして二男を手もとに取り戻してからの申立人は非常に落ち着いてはきたが、なお二男を相手方から奪われることを恐れ、相手方に対する不信感、憎悪感が強い。昭和四八年一二月の調査官の調整においても申立人のこの感情は解けるに至らなかつた。

昭和四四年八月申立人が二児を連れて九州別府市に赴いた行動についても、その前年から相手方が二児を申立人から遠ざけるようにし、昭和四三年末以来長男は他へ預けるという有様であつたことに対する不満から発作的にその挙に出たものと推認される。申立人審問の結果によれば、申立人は夏休みに子供たちと旅に出てみたいと思い、東名高速バスで名古屋まで来て、子らが喜ぶまま、列車で別府まで行き、旅費がなくなつたので実家へ電話したというのであり、相手方に対する面当ての気持がなくはなかつたとしても、その心情には掬すべきものがある。

なお、相手方は調査官に述べているように、申立人が子を道連れに自殺するおそれがあるとしている。申立人本人審問の結果によると、昭和四三年暮ころ前記住所でガス爆発が起き、申立人と二男正博が火傷を負つた(申立人は昭和四四年三月ころまで通院治療を受けた)ことが認められ、このことが相手方をして長男を相手方の妹啓子のところに預ける動機となつたものと推認されるが、申立人本人の供述によれば、右は単なる事故(点火装置不良によるガス漏れ)によるもので、申立人が自殺をはかつたわけではないことが認められるし、また申立人が九州から帰つたころ、睡眠薬を用いていたことも申立人本人の自陳するところであるが、そのころの紛争の疲れで眠れないため用いたもので睡眠薬による自殺を考えたわけではないことが認められる。

然りとすれば、前段までに考察した諸般の事情を参酌し、二男正博を監護すべき者は、母である申立人と定めることが相当である。正博は昭和四九年四月小学校に入学することになるから、双方当事者は共同親権者としてその入学手続に協力すべき責任がある。申立人は同人を監護すべき者として速やかにその居所を安定させるべく、相手方は監護者たる申立人の意思に反して同人の居所を変更させる等、その就学の妨害となる行為をしてはならない。

八  よつて当裁判所は子の監護に関する処分として必要な事項を定め、主文のとおり審判することとした。なお、家庭裁判所は、子の利益のため必要があると認めるときは、子の監護をなすべき者を変更し、その他監護について相当な処分を命ずることができることを付言する。

(家事審判官 田中恒朗)

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